Takamasa's blog2

歴史は糾える縄のごとし・・・

歪んだ理想主義

既に東西冷戦は過去の事になり、今の日本には共産主義への警戒心が緩んでいる。もちろんアメリカ占領軍の日本弱体化政策が着実に成果を上げているせいもあるが、武力による共産革命は日本では起きないという、どこか無関心の果ての気の抜けた感覚があるからだ。60年安保や70年安保を経験した全学連経験者たちが既に相当な年になっている現実もあるだろう。しかし共産主義者はそう簡単に諦めたりはしない。確かに武力による一気革命は諦めたかもしれないが、子供を人質にしてじわじわと共産主義的人間を作る作業は相当な年数を経た。

戦後の共産主義にかぶれた人間は平等主義の理想に反論できない歪んだ理想主義者となっているのだ。共産主義的平等思想は実は反人間的なものだ。反自然的と言っても良い。自然の摂理に反する事なのである。

人間は生まれながらに不平等である。なぜなら人間は養殖できるものではないからだ。クローンも許されない。つまり個々は同じではない。個性は不平等の証だ。顔の造作も体型も全て同じではない。基本的権利や義務は平等だが結果は不平等である。だから芸術や文化が必要となり価値も多様化するのだ。

自然界では弱肉強食が当たり前である。しかし肉食獣は数が少なく繁殖力も弱い。草食獣は肉食獣に食われる代わりに繁殖力が強く数が多くなる。それでバランスがとれている。人間は自然界では食物連鎖の頂点に立っているが数も多ければ繁殖力も強い。つまり人間だけが反自然的な存在なのだ。その人間がさらに反自然的な平等思想を理想とすれば必然的に殺戮が起きるのである。なぜなら必ず違う考えが生まれるからだ。その度に違う考えを抹殺しなければ平等主義は維持できないからだ。

貧富の差や階級の差、人種の差を一気に解決しようとした共産主義は、違いを認めない画一社会しか生まず、努力をしなくなり怠惰を招きコトゴトく失敗してしまった。ところが狂信的な日本の共産主義者はやり方の失敗だと思い込んでいる。

人間は理想的な生き方などできない不完全な生き物だ。だから常に努力をしなければならないし教育しなければならない。日本の共産主義者の中には不平等な現実を他人や社会のせいにして攻撃する輩も多い。不平等が当たり前なのだ。誰にでも平等に訪れる死ですら早い遅いと云う違いがあるのだ。

決して人間は平等ではあり得ない。人生は理不尽なものなのである。しかし自由で違いがあった方が面白いと思うがどうだ?